たむきょーのフィンランド留学記🇫🇮(その後)

学生時代フィンランドへ留学していました。将来はフィンランドの大学院へ進学し、博士を取りたい。 フィンランド教育×教員の多忙問題×英語教育を記事にします。教員をしながらBetterEducation@群馬にてワークショップ活動を行っています。

文系大学は意味ないのか?いや、最高の学びの場でした。

教採期間中はブログ更新やめていたのですがどうしても書きたいことが出来たので書きます。今一冊の本を読み終えドーパミン分泌されまくっているのです。この興奮冷めやらぬうちに今回だけは特例で自分にブログ更新許可を出しました。

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ここから本題

 

昨今、日本では学問を学ぶ場としての大学が軽視され、学問が形骸化し、大学は学歴獲得の手段という側面が強くなっているように感じます。大学をENJOYしてきた私から、学問っていいよね〜と思った出来事を綴って行こうと思います。

 

フィンランド留学中に学校観察を繰り返していた私は、フィンランドの教育の良さを学び、日本の教育に何かしらの示唆ができないかと考えていました。フィンランドの教員の生き生きした様子に目をつけた私は、社会学に目をつけ、学校を観察することで、日本とフィンランドの教員の違い、学校文化の違いに着目した研究をしようと決めました。

 

帰国後、この『〈ヤンチャな子ら〉のエスのグラフィー』を使い、社会学研究がどういうものなのか

学びました。すると社会学という学問を通して、自分の中に「新たなものの見方」が増えたのです。

 

それは、機能的な議論を社会学的な議論に変換していくことで社会問題の解決の手段が増えるというポテンシャルがあるということです。

 

貧困家庭をどう支援していくか議論する際、「生活保護の受給額を増やす」、「保護者に情報提供をする場を設ける」と言った支援のための機能を充実していくような提案ができると思います。しかし、生活保護を受給するということはある種自身の家庭が、平均的な家庭から「逸脱」しているということを認めることになるのです。この場合、生活保護という機能(制度)が存在しているにも関わらず、その逸脱性を認めたくない、または生活保護を受けることに対する社会からの侮蔑的な視線により生活保護を受給できない、と言ったことが想定されます。

ここで社会学の出番です。そうした機能をどう届けていくか、受け取ってもらえるかを考えた時にもっと個々人の心の動きに寄り添って、社会保障を受けやすい体制を社会でどう作れるかと言った話に持っていくのです。

 

私は教育をより良くしたいと考えています。教育をよりよくするには部活を廃止し、教員の時間の確保が先決だと主張する方も多くいます。機能的な考えのいい例ですね。ですが、教員の中には、部活をやらず、授業に時間を割きたい人もいれば、部活に大きな教育的意義を見出している方もいます。また、生徒は部活に対してどう思っているか、保護者は?部活を維持した時の教員の勤務時間の問題は?その教員の家庭は?

こんな風にそれぞれの立場の主張に寄り添って解決策を見出して行かねばならないのです。

 

社会学を学び始めてから物事を多面的に見れるようになりました。1つの事象に対して物事を色々なレベルで見ていく「癖」がついたのです。

 

こう言ったものの見方って社会に出てからも必要だと思いませんか?

 

確かに文系大学はスキル育成がしにくいエリアではありますが、逆に色々な界隈で使える不変のマインドセットが学べると僕は経験から思っています。

「学ぶって楽しいなあ!」って思わせてくれる場所ですよね。

 

[大きく頷いたページ]

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